バブル崩壊以前から公営競技は売上ダウンという危機状態にあったが、バブル崩壊でさらに拍車をかけた平成4年以、競輪界も新たな試みを打ち出しながら売上アップを図ってきた。また新潟県選手会にも70期代の精鋭が平成5年以降に数多くデビューを飾った。今回は平成5、6年の競輪界の流れと新潟選手会の動きにスポットを当ててみた。 JRAがファンのニーズにこたえようと馬券の種類を増やし、馬番連勝を導入したのが平成3年の秋。これによって、これまでにない高配当が続出し、ファンに一獲千金の夢を与えた。それに引き換え競輪はまだ車番導入はなく、枠番連勝単式が後半6個から3レース以降に変わったくらいだった。競馬の馬連(フルゲート18頭)の場合は153通りあるのに対して、競輪の場合は最高33通り。それなりの高配当はあったとしても、競馬みたいな夢のような高配当は期待できなかった。試行錯誤の中、JRAから遅れること6年の平成9年にようやく車番連勝を導入した。 2強時代が到来! 競輪選手会の流れも平成4年のダービー(前橋)で吉岡稔真が特別初制覇を、また5年のオールスター(宇都宮)で神山雄一郎が涙の初タイトルを獲得し、この時期から西の吉岡、東の神山という東西両横綱の時代がスタート。中野浩一、井上茂徳の九州ゴールデンコンビに怪物・滝沢正光の長き時代も終わりを迎えることになった。 期待の若手選手登場 新潟選手会はといえば68期の阿部康雄、松田桂一から遅れること1年半。71期に合格した笹川竜治と竹内忠が平成5年にデビューした。笹川は吉田商時代にはインターハイ4000mで優勝するなど活躍した。競輪学校は2度受験に失敗したが、同級生だった竹内とともに3度目の受験で合格。競輪学校では34勝を挙げて10位だったが、卒業記念レースでは決勝までただ一人4戦すべてに連対して進出。決勝では目標とした群馬の角田直樹に離れたものの3番手をキープして直線強襲。68期の阿部康雄に続いて県勢では二人目の卒業チャンピオンに輝いた。 |