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−弥彦競輪50年の足跡−


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  平成の時代に入って特別競輪の増設や、ふるさとダービーなどの新設でファンにより魅力ある競輪をと努力してきた競輪界。しかし、世間の景気と同様で思うように売上アップにつながるものではなかった。今回は弥彦競輪を参考にして、その後の競輪界の対策はどうしたのかを紹介。また前回述べた新潟選手会の冬の時期を解明するとともに、その後の選手会を紹介する。


 平成3、4年にふるさとダービーを開催できた弥彦競輪は、施設会社などとの協力で施設拡大するなど競輪事業に積極的な姿勢を見せた。

会津、釧路に
専用場外がオープン

平成5年5月には場内に新たな特観席(クレッセント)を新設オープンしたし、6年10月には福島県喜多方市に初めての県外専用場外のサテライト会津をオープンさせた。さらに7年7月にもサテライト釧路(北海道白糠町)をオープンさせている。これが実現したのはふるさとダービーの成功もあるが、全国に広がった相互場外の関係で場外発売が多くなったためだ。以前の弥彦は冬期間の前橋と日本選手権(ダービー)くらいのものだっただけに、ファンにとっては魅力のある競輪を楽しめるし、施行者も収益アップにつながった。どの施行者も本開催だけでは苦しい状態だっただけに、場外発売は大幅ダウンを食い止めるには最善の対策だったといえた。

受験者のレベルアッ
プが新人不在の原因

 さて新潟選手会だが、約6年11期続いた新人選手不在の原因を解明した。競輪学校受験者の手助けをする愛好会の担当者によると「その当時も受験者はそれなりにいましたね。ただ受験者のレベルが以前に比べるとアップしていたのが大きかった。一次試験は受かってもその上になるとダメでした。それであきらめていくアマチュアが多かったですね。原因は指導方法にあったのかもしれないですね。新潟の場合は師匠制度がなかったため愛好会の担当者が指導するだけだったんですよ。それも月に4〜6回程度ですからね。それでは全国的なレベルに引き上げるのは難しいですよ。現在は時間があれば毎日でも指導していますし、そうでなければ育成も難しいですからね」と語ってくれた。愛好会の担当者の熱心な指導と受験者の努力が結束しなければ難関は突破しないというのが現実のようだ。

異色の経歴を持つ
阿部康雄がデビュー

 55期の倉田浩道、藤田茂洋から待望の新人が登場したのが67期の高野聡と川上秀明。そして68期で阿部康雄と松田桂一がデビューする。次回は異色デビューの阿部にスポットをあてながら、このコーナーを紹介する。
                            (つづく)



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