弥彦競輪物語も今回から昭和の時代を終えて、平成の時代に入ってくる。昭和60年には競輪競走の超目玉といえるKEIRINグランプリが新設されたようにビッグレースが増して、ファンをひきつける競輪になった。今回はKEIRINグランプリや、ふるさとダービーなどが誕生した経緯や、平成3年(91年)に弥彦で行われたふるさとダービーなどを、県選手会の足跡とともに紹介する。 ふるさとダービー弥彦開催 平成元年に特別競輪が開催できない地方の競輪場でもビッグレースをという施行者の要望が通って、ふるさとダービーが新設された。この新設に大きく貢献したのが弥彦村だった。故本間道雄前村長の遺志を継いだ関係者の努力が実った結果だった。初年度は広島、2年目は福井、広島で行われたが、開催準備が整った平成3年6月に、ついに弥彦でも初めてのビッグレースが開かれることになった。全国的な発売だけに過去にない盛況ぶりだった。俵信之が直線で抜け出して見事に優勝したが、ふるさとダービーらしく、最終日のレースでは地元新潟の小林昭二がラインのアシストを受けて初勝利を挙げている。 新人選手が不在 平成3、4年はふるさとダービーで盛り上がった弥彦だったが、県選手会にとっては一番厳しい時期だった。昭和60年にデビューした倉田浩道と藤田茂洋を最後にピタッと新人選手が生まれなくなってしまった。この時代が約6年、11期も続くのだ。特に藤田などは「新人が出てこないのでいつまでたっても先輩のお茶係ですよ」と嘆いたものだった。このときは施行者を筆頭に関係者は真剣に新人発掘に向けて考えたものだった。 (つづく) |