施行50周年を迎えた弥彦競輪。前回は昭和 年までの歴史を紹介したが、ここは再度53年の西宮オールスターで優勝した天野康博を詳しく取り上げながら、56年から60年までの新潟選手会を競輪界の流れとともに紹介する。
県勢としては初の快挙に、地元紙でも1面を飾った。地元に戻っての歓迎ぶりは盛大で、「いろんな所で祝勝会をやってもらいました。とにかくいい思い出ですね」と語ってくれた。その後も原田則夫や阿部康雄が特別競輪の決勝に進出したが、第二の天野までには至っていない。
さて、昭和56年からの競輪界といえば上昇線を描いていた売上が初めてダウンするという危機的状況が始まる。その打開策として検討されたのがKPK(競輪プログラム改革構想)だ。これが58年4月から現在に至っている新層別制度。A級5班、B級2班制
新潟選手会のほうは56年に大橋潤市、小林政春、山崎純一、山崎登、荒川一成、佐藤幸重(福島より移籍)、57年に金子直樹、58年に本井謙吉、山崎保、59年に小林昭二、岡村馨、60年に倉田浩道、藤田茂洋が新たに入会。58年に中川聡志、庭野博文のコンビでスイスで行われた世界選ドミフォン種目で初めて出場。そして59年デビューの小林は原田則夫に続くスターとして期待された。 (つづく) |