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−新潟県 名選手列伝F−



庭野 博文さん

 今回は競輪選手としてより自転車競技ドミフォン(オートバイに乗ったペーサーと、そのすぐ後ろを自転車に乗ったレーサーがペアで走行。一定時間内にバンクをどれだけ走れるかを競う)のペーサーとして有名な庭野博文さん(45)をご紹介します。11歳で選手を目指し、35期でデビューした庭野さんの名前が知れ渡ったのは、1982年の全プロで中川聡志と組んだドミフォンで優勝してから。以来、このペアで6連覇。笹川竜治とのコンビでも優勝し、世界戦へ5回出場している。

 
父親に説得されて、小学5年生の10月から、プロ選手にまじって、バンクで周回練習が始まった。「学校へ行く前と帰ってから日が暮れるまで毎日、走っていました」。もう父も子も競輪選手になる、と決めていた。「冬は手製のローラーでしました。日曜日も平均で4時間は自転車に乗っていたかな」。そして1975年にプロ選手に。

 「でも今、悔やむのは周回練習しかしなかったこと。それにあった筋肉ができてしまっていた。もがきやダッシュ、ほかのスポーツをやっていたらなあと思います」。自分でダッシュをかけても車が出ない。デビューして3戦目からもうマーク屋の道を。

 ドミフォンのペーサーの話がきたのは1981年の地区プロのとき。「中川(聡志)がどうしても出たいということで、僕も引かしてくれとお願いした」。翌年の全プロでいきなり優勝し1983年、スイスのチューリッヒで開かれた世界戦に出場。「やっぱ
り、一番思い出に残っているのはスイス。海外旅行も初めてだったし、競技が終わったあと、登山鉄道でアルプスへも行きましたよ」。

 日本では後ろのレーサーに日が当たるが、本場のヨーロッパではペーサーのプロがいるほど重要な役目を果たす。ハンドルの長い独特のバイクに突っ立ち、体の向きを調節して、風を敵のレーサーに当てたり、後ろのレーサーの顔を見て、ペースの上げ下げを調節する。

 その後、笹川竜治とペアを組み、1994年、イタリアのシシリー島で開かれた世界戦に出場(ドミフォンの派遣はこの年でなくなった)。「全プロで強い2組が落車と失格して」と庭野さんは苦笑い。

 1998年に引退、今年4月から弥彦競輪場の相談、ガイダンスコーナーへ。「きれいごとに聞こえるけど、自分なりにファンへのお返しをするつもりでやっています」。

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