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−新潟県 名選手列伝B−



倉田 浩幸さん

 小泉純一郎新首相は親子3代の政治家。新潟にもいますよ。倉田浩男(故人)−倉田浩幸(15期、引退)−倉田浩道(55期)の三世代選手が。そこで今回は引退後、弥彦村の老人憩いの家で働く倉田浩幸さん(62)にお話をうかがった。氏は騒擾事件で揺れる61年6月に選手登録、93年まで159センチの体で32年間走り切った。通算105勝。

 父親は県選手会の初代の会長を務め、オールドファンには、レースとレースの合い間の曲乗りでおなじみ。私も、自転車のサドルの上に立ち、オートバイと首をヒモでつないだまま、バンクを疾走する写真を見たことがある。「私もあれはできるよ。でも親父はあのままカントのあるところを登っていった。それはできない。でも両手の代わりに両足でハンドルを操るのは、私はできたけど、親父はできなかった」。要はバランスだと簡単に言ってのけるが…。父は浩幸さんの落車を見て、
うまく転ぶと言ったそうだが浩道君の落車を見て、同じことを思った。これが血だ。

 父との初めての同時配分は64年の千葉。父は曲乗りなどの功績で表彰を受けたが、本人は落車で散々。それよりも「浩道と初めて一緒だったときは感動した」と振る返る。「浩道が走っているときはそこだ、踏め、とかいろいろ言っていたらしいね。終わってから周りに散々言われた」。浩道君が高校3年のとき、「選手になりたいと言ってきた時はうれしかった」と相好を崩した。「4人も子供がいて、一人くらいあとを継いでくれなきゃ、なーしたんだって言われるよ」。

 「選手になって3場所で追い込みになった。当時は新人は先輩のために逃げるのが当たり前だったから、お前の親父はそんなことを教えたのかとか言われたけど、口で言われるくらいで、いじめられたりはしなかった。やはり親父のおかげでしょう」。

 選手としてスポットライトを浴びることはなかったが、やめる前に日記を見て、こんな発見をした。「1着から7着までの同着をしたことは自慢できるね」。一人でも追い抜く、絶対にあきらめない、その気持ちが小柄な体を32年間支えた。  

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