登録番号416。弥彦競輪が始まった1950年。「夏ころから走り始めたのかな」というのは倉品ミヨさん(74)。お名前からもわかる通り、64年の11月まであった女子競輪の選手だった。「くそー、あの人ができるんだから、私にも絶対にできる。その気持ちを持てるのは競輪選手だったおかげです」。取材の中で「競輪は一瞬のスポーツですよ」というのは、その通りだと感じ入った。
よく笑い、よくしゃべる。 そんな倉品さんは与板町の出身。競輪選手になるキッカケはお兄さんのひと言。「おい、自転車に乗らないか」。
思わず「ああ、いいよ」と返事をした。当時、新潟市で働いていたが、そこを退職して競輪界へ飛びこんだ。
「自転車経験はゼロ。町内対抗の運動会で走ったことがあるくらい」。実家のある与板町から母の作ったお弁当を持って弥彦まで練習に通い、休みは雨の日だけ。許可されてプロの道へ。「初めのころは、練習したあと、階段も上がれないくらい。それを続けると、脚の筋肉がピキッ、ピキッとなってくる。へえーと思ったりした」。
「初出走は前橋だったかなあ。1着か2着になって、お客さんに叱られた。恐ろしいところだと思った」。まったくのノーマークの選手だったからだろう。お客さんの気持ちもわからなくはない。
戦法は先行。地脚はあったけど、回転に難が。当時はペダルに足を固定させない、実
用車のレースがあったが、 「これは強かったですねえ」。 でも、今でいうレーサーでは 力が発揮できない。「今になって思えば、基礎がまったくできていなかったし、コーチとかもいなくて、自分ひとりでしたから」。フォームも何も実用車の乗り方になってい
たのだろう。
ただ、負けん気はすごい。 「お金を稼がなくては、それしか頭になかった」。自分で自分を叱咤激励しながら走っていた。
「メンバーを見て、 これは勝てる、絶対勝ってやろうと思うと、神経がピピッとなって、冴え渡る。そういうものなんですねえ」。「生半可な気持ちじゃ、お金なんか稼げない」。ハングリー精神なんて、きれいな言葉では表せない、そんな気概が倉品さんの体から発するのがわかる。
優勝は3回くらいという倉品さん。松阪の準決、生涯で唯一のまくりで勝って、宿舎になっていた旅館で松阪牛をみんなで囲んだ。「おいしいものを食べ過ぎたかな、油っぽいものや美食が抜けない。
それが困ったものかな」。
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