勤王の志士
ほんませいいちろう たんじょうのち
本間精一郎誕生の地
所在・寺泊町 片町
あし・佐渡汽船前・大町各バス停 徒歩3分

 本間精一郎の実家は、酢、醤油の醸造を営む「かくほん」という屋号の豪商で、本家「やまほん」からの分家でした。先祖は佐渡守護職本間遠江守正方で、承応二年(一六五三)遠江守の孫の代に寺泊に移り、廻船吟味役をしていた清左衛から分家しました。父は五代目辻右衛門で、精一郎はその長男でした。

 嘉永六年(一八五三)六月、米大使ペルーが四隻の軍艦を従えて、浦賀に投錨し、日本中が大混乱のとき、精一郎は青雲の志を抱いて「曇なき真澄の月の心もてあわれ雲井に名を照さばや」の一首を壁に書き残して郷里をあとにしました。時に精一郎二十歳でした。

 燃え盛る大志を胸に秘めて翔んだ精一郎が、志士としておどり出たのは、慕末の文宇通りの騒乱期でした。安政五年(一八五八)まで江戸におり、幕府の要人川路聖謨 (としあきら)につかえました。しかし、勘定奉行川路聖謨の中小姓から転じて、勤王の志士として京都に潜り、いつしか尊攘派浪士の中心的存在となっていったのです。

 この頃の日本はもめにもめ、開国か鎖国か、朝廷か幕府か、京都はその中心舞台だったのです。精一郎の主眼は王政復古であり、倒幕でした。威圧による外国の不遜な貿易の交渉などは、あくまで反対で攘夷すべしと主張し、さらに公武合体には不満の意を表明したのです。やがて幕府と朝廷、薩摩、長州、土佐の三藩の勢力争いの渦中にあって、浪士であるがゆえに、それぞれの立場を優先する側からは疎(うと)まれたのです。そして喬木は風に逆うのたとえで、間もなく同志等の誤解を招き、京都木屋町で土佐藩士武市半平太の謀計により、岡田以蔵等の兇刃に斃れたのです。時に文久二年(一八六二)精一郎二十九歳、初秋の秋の夜のできごとでした。

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