弁慶の手堀井戸
所在・寺泊町大町 聚感園内
あし・大町バス停 徒歩1分

 源義経は、兄頼朝の命を受けて一の谷、屋島、壇の浦の合戦で平家を滅ぼし、大きな戦功を立てましたが、逆に兄頼朝に疎まれ、追手をかけられて”義経記”にもあるように、弁慶以下わずかの手兵を従えて都落ちし、奥州平泉の藤原秀衡を頼って、身の危険にさらされながら、北陸路を奥州へ奥州へと逃げて下って行くのでした。

 義経主従は海上の遭難で寺泊へ漂着し、疲労しきっていたので土地の豪族五十嵐氏邸へ身をよせ、幾日間か逗留しました。五十嵐氏は人々の目を避けるために、後庭にあった浴室にかくまい、従者の弁慶が義経の手洗いや洗顔の用にとわざわざその裏に井戸を掘ったと伝えられています。

 江戸時代の天保年間に漢学者の亀田鵬斎(ほうさい)がこの五十嵐家を訪れたとき「弁慶井泉の詩」をつくられました。
弁慶井銘

泌沸寒泉 泌沸(ひつふつ)たる寒泉
敏斯為井 斯(ここ)に斂(あつま)って井となる
其味甘美 其の味甘美に
其気清冷 其の気清冷なり
可以醸酒 以って酒を醸(かも)すべく
可以煮茗 以って茗(ちゃ)を煮るべし
大早不涸 大早にも涸(か)れず
巨浸不充 巨浸(きょしん)にも充(み)たず
歴祀六百 祠(し)を歴(まつ)ること六百
源々無窮 源々窮(きわま)り無し
誰其鑿之 誰か其れ之をうがつ
法師慶公 法師弁慶にぞある

 泌沸=水がわき出る様
 巨浸=大雨

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